思い出せない
(眠って見た夢を素材に短い小説)
深まりし秋に憩える円卓に
見ている時のみ美しい花
薄いピンクの可憐な花束と、小さいけれど澄んだ輝きを放つ石のついた指輪。
この二つを恋人から受け取り、千花は来年の春、花嫁になることとなった。
婚約祝いのパーティは、千花の友人達が用意した。
貸し切りの小さなレストランの大きな窓からは、秋の午後の日差しが注いでいる。
丸いテーブルを二つ並べた周りに千花の幼なじみが二人、学生時代の友人達が四人、会社の友人が二人、席についている。これまでにも一緒に出かけたりなどして、それぞれ顔見知りになっている女性達は華やかに笑いさざめき、千花を中心に話はつきなかった。
「ごめんね、あと少しだけ待ってね。」
婚約者が車の渋滞に巻き込まれて約束の時間に遅れていることを、何度か千花は謝っている。
いいのよ、と今度も皆が返した時に、レストランの木の扉は開き、千花の婚約者が現れた。
ここにいる千花の友人たちは、この婚約者も見知っていて拍手でもって迎えられた。
千花は拍手をしなかった。微笑みもしなかった。
まじまじと、愛しいはずの婚約者の顔を見て立ちつくしていた。
「遅れてすみません。」
と、周りに頭を下げながら、千花に向かって、ごめん、と合図する婚約者。
反射的に笑い返した千花の頭の中は、それどころではなくなっていた。
大変なことを思い出した。
いや、違う。思い出そうとしている。
私は、彼と婚約してはだめではないか、なぜって私には他に大事な人がいるのだから。
「おめでとう。」
友人達から渡される花束、カード、プレゼントのリボン。
「ありがとう。」
それらを婚約者と受け取る私、と、千花は自分のことを遠くから見ている気がした。
私には、誰よりも愛する人がいる。
大事な恋。なのに、その人がいったい誰で、どういう関係なのか思 い出せない。
何もかも、霧の中に紛れたように定かでない。
「ケーキでーす。」
はしゃいだ声で友人達が、ワゴンを押して来る。テーブルの上に乗せられた四角いケーキの上には、お菓子でできた白い壁に赤い屋根の家が建ち、その前にはタキシードとウエディングドレス姿の人形が寄り添っている。
「私達で作りました。」
婚約者から、
「すごい、上手だね。」
と声をかけられ、
「ほんと。」
上ずった声を出すのがやっとの千花だった。
最初からよく知らない人だったのだろうか、そんなはずはない。
何かないだろうか、手ががりが。
写真、日記、友人達に聞いてみようか。
ノート、手紙、何か、何かあるはず。
焦り、切ない、苦しい……この身がバラバラになりそうな程。
その大事な人と、ずっと一緒にいればよかった。
……いや、私の片思いだったのだろうか、もう一度会い たいと思っても、探し出す術もない程の間柄の…… どれ程後悔しても遅い……事実があまりにも儚いことばかりだから何も思い出せない、そうなのだろうか。
「千花、どうかした?」
皆が心配そうに自分を見ていることに、千花は気付いた。
「……なんだか、緊張してきちゃって……」
かすれる声で、千花はそれだけ言った。
どうしよう、もうその人に会えない、取り返しがつかない。
でも、本当に?
「それじゃ、本当の結婚式の時困るよ。」
皆の声に、千花はもう何も返すことができなかった。
「今日は調子が悪かったみたいだね。」
パーティーが終わり、婚約者に車で送られながら千花は黙りこくっていた。
もちろん、それはうわべだけのことで、頭の中は大事なことを思い出せない苛立ちに、誰へとも知れず、なぜ、なぜ、と繰り返していた。
「酒が飲めない男っていうのもいいだろ。酒の席の後にも車が運転できる。」
千花も酒が飲めない。そういうところも、お互い気に入っていたのだが。
だが、今はそれどころではない。結婚へと続くこの流れを止めなければ。
「……私、私ね、話があるの、どこかで車を停めてくれる。」
思いつめた声だと、自分のことながら千花は思った。
婚約者は公園の脇に車を停め、 何事かと千花の言葉を待っている。
「私、あなたに謝らなくちゃ、いいえ、わざとじゃなかったの、だって自分でも今日気が付いて……」
「何、ちょっと落ち着いて、何に気が付いたって?」
婚約者は、興奮気味の千花に驚いている。
「私には大事な人がいたの、忘れていたの、どういうわけか。」
「え、それって誰のこと?」
「わからないわ、どこの誰かもわからない、名前も、顔すら思い出せないの。」
「……それ、夢の話?」
「夢じゃないわ、ちゃんと起きてる時に気が付いたんだから。」
婚約者はしばらく何か考え、やがて静かに話し始めた。
「……僕は寝てる時に気が付いたよ。」
「え。」
「この前、夢で見たんだ。自分には、その、千花の他に結婚するべき人がいたんだった、忘れてたって。」
「……」
「起きてから考えてみても、全く心当たりがない。でも、夢の中では苦しかったんだ、すごく。」
「私も、今、すごく苦しい。」
「ずっと気になってて、それで、二、三日前わかったんだよ……犬だった。」
「え、犬?」
「そう、犬が好きで、子どもの頃からずっと飼いたかった。けど、 小学校から高校まで野球をやってて忙しくて。親は、自分で面倒みられないなら飼わないって言うし。大学からは一人暮らしだったしね。」
「……」
「ずっと忘れてたんだ、犬を飼いたいって思ってたこと。犬だけじゃない、独身のうちに友達と野球チームを作りたいとか、あと、すぐには思い出せないけど、いろいろ。千花は、そういうこと何かない?」
「……私、ピアノをどうしようって思ってた。高校生の時習うのをやめちゃって、でも、もう一度始めたいって。それと、会社を結婚退社していいのかなって。独身の子が少し羨ましくなったり。婚約して、すごく幸せなのに。」
「そういうことなんじゃないのかな。」
千花は、だんだん落ち着いてきた。あの苦しさや焦りがおさまってきている。
冷静に考えてみれば、この身がバラバラになりそうな程の恋を、うっかり忘れていたりするだろうか。
「千花、お互い大切なこと、全部持って結婚しよう。叶えられることがあれば一個ずつ叶えて行こう。」
千花は、その後も、時折この日のことを思い出すことがあった。
そして、その度、婚約パーティーの高揚と、結婚に対する緊張で心が疲れていたのだ、だから、ありえないことを考えたりしたのだということで納得していた。
結婚して一年後に、千花は、女の子の母親になった。
その子が五歳を過ぎる頃、広い庭のある家が建った 。色とりどりの花に囲まれた、真っ白な壁の、赤い屋根の家。あの婚約パーティで友人達が作ってくれたケーキの上のお菓子の家、そのままのような家だった。
秋の晴れた暖かい日、友人が二人、新居祝いに訪れた。
婚約パーティーにも、結婚式にもお互いに呼び合った友人達だ。
二人とも自分たちが家を建てる時の参考にしたいと張り切っている。
芝生の庭へ続くテラスに、小さな丸いテーブルと椅子を出し、お茶と手作りのアップルパイを並べている千花のそばへ友人の一人がやってきて話しかける。
「本当に素敵なお家、千花は幸せねえ。」
「ありがとう……」
照れながらそう返す千花の耳元へ顔を近づけ、友人は笑ったような、ため息のような声音で言った。
「あの頃ずいぶん迷ってたけど、旦那様を選んで正解だったわね。」
娘が千花を呼ぶ声がする。けれど、すっかり硬くなった千花の耳に、声はただ、ぶつかって落ちて行くだけだった。