眠りの南

正座したまま一時間眠れる、そんな主婦の、読み書きと猫の日々

三島由紀夫の対談テープ

今月の12日の新聞に、三島由紀夫の未発表の対談テープが発見されたことが載っていた。

自らの文学観や死生観について語られているものであり、新聞でも部分的にではあるが、内容を知ることができた。

自らの小説の欠点を、

“構成が劇的過ぎる”

としたり、

“漢文の古典の教養がなくなってから、日本人の文章はだらしがなくなった”

と話されたり。

また、

“人生や思想ではなく、言葉が小説のマテーリアル(素材)である”

と語られ、興味深い。

中でも、

“死が肉体の外から中に入ってきた気がする”

という言葉が一番心に残った。

真意はわからないが、少なくとも、死が以前より自分に近くなったということだろう。

こんなふうに自分の中に死を納めることができる人は、どのぐらいいるのだろう。

この件は、テレビでも扱われ、自分の行動を、

“僕が死んでね、50年か100年かたつとね、「ああ、分かった」と言う人がいるかもしれない。それでもかまわない”

と語る部分も放送されていた。

自分の死んだ後のことが見えていたのだ。後に、自殺という死に方を選んだことは、この時の言葉の中に含まれているのだろうか。

“人間は死んだときに、初めて人間になる。運命がなければ、人間は人間の形をとれないんです。ところが生きているうちは、その人間の運命が何か分からないんですよ”

とすると、私も死ねば、何か形や意味を持ったものとして認められるのだろうか。この人は、こういう運命を生きた、こういう人間であったと。

それは、嬉しいことかもしれない。

ただ、私は、周囲の人間に、それをずっと覚えていてもらいたいとは思わない。ああ、そうかとその時思って、翌日には忘れていてほしい。私という人間が存在していたことすら、全部。

それは、私にとって、とても楽なことだと思う。なぜそう思うのか、今はよくわからない。

今回の対談テープの件によって、違う面から死というものについて考えることとなった。