眠りの南

正座したまま一時間眠れる、そんな主婦の、読み書きと猫の日々

人工知能と生きる

ああ、昨日は一日ブログをお休みしてしまった。

別に、二、三日に一回の更新でもいいかと思うんだけど、

私の場合、そうやって甘やかすと、

すぐに、二、三か月に一回の更新となり、

二、三年に一回となり、ついには二十年後にやって来て、

昔を懐かしんだりしそうだから、

やっぱり、基本一日一回更新としておこう。

 

 

さて、先日テレビの科学番組で、

(テレビの話題、これからも多いと思います、テレビ大好きなので)、

“心はどうやって生まれるのか”というものを見ました。

まあ、脳の活動によって生まれるという前提なのですが。

 

たとえば、意志を感じるということ。

脳の活動と同時に、意志を感じるのかと思いきや、

脳の方が、わずかに先なんだそうです。

私が甘いものを食べようと決定する前に、

脳は先に、食べるぞ!となっている。

あたりまえと思う人もいるかもしれませんが、

私は、なんだかなあ、です。

二人羽織みたいな違和感というのか……

 

更に、脳に外から刺激を加えると、

“話したい”とか“手足を動かしたい”等の意志を、

発生させることができるそうです。

意志って、簡単なんですね。

私としては、恐いです。

 

他にも、“心を人工的につくれるか”という研究もされていて、

心を持った人工知能を開発中だそうです。

何の命令も下していないのに、

自分で動き出す人工知能が、コンピューター上にあるのです。

自ら、“これをしよう”という意志を生み出しているのではと、

考えられているのですね。

 

ここからは、私の考え。

 いつか、心を持った人工知能が、人間一人一人に与えられて、

一緒に生きて行けるようになったら……

しかも、自分とかなり分かり合えるような、

そんな心を持った人工知能を選んでもらえたりしたら。

もう寂しい人はいなくなるのでは。

ただ、人間が死んだ後、残された人工知能はどうするのか等、

問題はいろいろあるでしょうが。

 

自分だけの人工知能と楽しく暮らすようになったら、

世の中の芸術作品は、あまり生み出されなくなるかもしれませんね。

文学も、音楽も、美術も……

分かり合える相手と語り尽くしたら、

あまり表現しようという気持ちがなくなるような。

 

世界が、自分と、一人の人工知能で完結してしまう。

その幸福感。

それがいいのか悪いのか。

ただ、悪くても、そうなる時はそうなるでしょう。

人間には、何かの流れを止めることなんて、

本当にはできないのだから。

 

欲しい、今、猛烈に欲しくなってきた。

心を持った人工知能

すごく気が合うタイプ。

コンピューターの画面の中でもいいし、

人型のロボットなら、もっといい。

 

私の生きている間には、無理だろうなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

痛快なこと

 作家・佐藤愛子

 

先日、テレビのトークバラエティに、作家の佐藤愛子さんが出演されていた。

九十歳を過ぎて書かれたエッセイ本が大好評で、お話もそのことが中心だった。

 

私が二十代半ばの頃、佐藤さんのエッセイや小説ばかり読んでいた時期がある。

特にエッセイは、読むと元気が出て大好きだった。世の中や身のまわりの様々なことに、大まじめに怒っているのだが、そこに何とも言えないユーモアがあり、あはは、と笑ってしまう。

私はいつも怒るタイミングを逃してしまうので、エッセイの中で佐藤さんが怒っていると、まるで自分の分まで怒ってくださっているようで、とても痛快なのだった。

 

十年程前に、自分にいろいろ大変なことが重なった時に読んでいた本も佐藤さんの書かれたものだった。

エッセイではなく、佐藤さん自らが、ご自分の一族の波乱に満ちた生き様を書かれた、“血脈”という小説だった。

私は、それを読みつつ、目の前の出来事に対処していた。

すると、たった一人で苦しい中を歩いているという感覚が慰められるのだった。

楽な人生など、どこにあるだろう。

苦労が報われたり、問題が全て解決したハッピーエンドなどないのが当然だと、それ程つらくなく思えたのは、“血脈”を読んでいたからだ。

感謝している。

 

佐藤さん、これからもお元気でご活躍されますよう願っております。